このページでは、武産合氣會が子供への武道教育をどのように考え、何を大切にしているかをご紹介します。


㈠ 武道教育と日本の文化

大人とは異なり、まだ身体も心も成長の途上にある子供への武道指導には、時間と根気が必要です。教える側にも、学ぶ子供にも、ときには苦労があります。しかし武産合氣會では、日本の将来を担う子供たちへの指導を大切にし、長年の経験を重ねながら、そのあり方を考え続けてきました。子供だからこそ、武道を通して伝えたい大切なものがあるからです。

健やかな子供は、いつも静かに座っているわけではありません。走り、笑い、はしゃぎ、ときにはぶつかり合う。それぞれ性格は違っても、身体いっぱいに動きながら人と関わり、少しずつ自分の世界を広げていきます。

日本には古くから、子供を大切にし、その遊びや成長をおおらかに見守ってきた文化があります。各時代の絵画にも、無邪気に遊ぶ子供たちと、それを見守る大人の姿が数多く残されています。

江戸時代 無邪気に遊ぶ子供たちと、見守る大人

日本の子供と社会

昔の日本を、厳格な身分によって人々が隔てられ、その境を越えることのできない社会であったかのように捉える見方があります。しかし、日本にも身分や社会的な制約はありましたが、そのあり方は単純な固定社会ではありませんでした。身分には社会における役割という側面があり、人々の移動や交流も頻繁にありました。

こうした日本社会の姿は、外国の歴史や社会のあり方をそのまま日本に重ねた見方や、戦後に広まった歴史観、時代劇などによって作られた印象とは、かなり異なるものです。

各時代に残された絵画を見ると、身分を越えて無邪気に遊ぶ子供たちと、それを見守る大人の姿に出会います。子供を大切にし、その遊びにおおらかであったことも、日本文化の特徴の一つです。

我々は、こうした子供本来の明るさや力を、初めから大人の型にはめて抑えることを教育とは考えません。

子供をただ従わせるのではなく、その伸びようとする力を大切にしながら、礼を知り、人と和し、自らを律することを少しずつ身につけていく。子供を温かく見守りながら育ててきた日本文化のよさを、現代の武道教育にも活かしていく。それが武産合氣會の子供への合氣道教育の出発点です。


㈡ 現代の武道教育の問題

現代の子供への武道教育は、大まかに二つの傾向に別れます。一つは、子供だからと甘く扱い、十分な技を教えないこと。もう一つは、大人の言うことに従わせることを教育と取り違え、頭ごなしに子供を型にはめてしまうことです。

前者では、武道としての技を十分に学ぶことなく、形だけの運動や受身に終始しかねません。後者では、子供が自分で考えて行動するよりも、常に大人の顔色を見て、その求める答えを先回りすることを覚えてしまいます。

我々は、そのどちらも子供のための武道教育とは考えません。

子供が静かに座り、指導者の話を聞くこと自体が悪いのではありません。礼を守り、人の話を聞き、稽古に集中することは当然必要です。しかし、「大人しく従っていること」と「自らを律すること」は同じではありません。

外から押さえつけられて静かにしているのではなく、なぜ今は話を聞くのか、なぜ礼をするのか、なぜ相手を大切にしなければならないのか。それを少しずつ理解し、自分自身の意思によって行動できるようになることが大切です。

また、「明るく」「楽しく」「礼儀正しく」といった言葉を掲げ、それを子供に繰り返し求めるだけで、そのような人に育つわけでもありません。

技を一つ覚えた。昨日できなかったことが今日はできた。強く掴まれても技を働かせることができた。剣や杖を思うように扱えるようになった。仲間と一緒に稽古し、失敗して、また挑戦した。

そうした経験そのものが楽しいから、子供は自然に明るくなります。自分でできることが増えていくから、自信も生まれます。結果として求める姿を言葉で押しつけるのではなく、そこへ至るための過程を用意することが、教える側の仕事です。

もちろん、すべての子供に同じ方法が合うわけではありません。性格も成長の速さも違います。合氣道そのものが合わない子供もいるでしょう。だからこそ、一つの型に子供を押し込むのではなく、その子が自ら学び、自ら伸びていくために何が必要なのかを、指導する側が考え続けなければなりません。

そして、武道教育には学校の授業とは異なるところがあります。

武道を教える者は、言葉で「こうしなさい」と求めるだけでは足りません。子供に礼を求めるなら、自ら礼を失わない。努力を求めるなら、自ら稽古する。人を思いやれと教えるなら、自ら人を大切にする。強くあれと教えるなら、自らもまた強くなるための努力を続ける。

教える者がまず自らを律し、その行いをもって示すこと。

子供は、大人が思っている以上によく大人を見ています。何を言ったかだけではなく、その人が実際にどう振る舞っているかを見ています。だからこそ、子供に武道を教える者には、自らの行いを省み、鍛錬を続ける責任があります。

武道の修行に「これでよい」という終わりはありません。教える立場になった後も、自ら技を磨き、身体を鍛え、自分自身を問い続ける。その姿を子供の前に示すこともまた、武道教育の一部です。


㈢ 武産合氣會の教育

稽古が楽しいものであることは、子供にも大人にも大切です。しかし子供の場合、その楽しさが生まれるところまで導くには、教える側にも、学ぶ子供にも時間と努力が必要です。

叱れば、子供をその場で従わせることはできるでしょう。しかし、恐れて従っていることと、自ら理解し、自らを律して行動することは違います。子供の心を押さえつけて形だけを整えるのではなく、なぜそうするのかを少しずつ理解し、自分の意思で行動できるように導くことが大切です。

一方で、武道には当然、厳しさがあります。できないことに何度も取り組み、苦しいときにも投げ出さず、時には怖さを乗り越えなければならないこともあります。そうした経験をすべて取り除いてしまえば、武道を学ぶ意味の大切な部分まで失われてしまいます。

しかし、その厳しさを子供に言葉で説くだけでは十分ではありません。まず教える側の大人自身が稽古し、努力する姿を見せることが大切です。

大人の背中

武産合氣會では、大人も子供と同じ場で汗を流します。昇級段審査では、思うように技が働かず苦しむこともあれば、抑え込まれながら何とか技を返そうとすることもあります。剣や杖の稽古では、十分に注意していても、打ち合う中で受け損ない、打撲などの怪我をすることもあります。

もちろん、怪我をすることが稽古の目的ではありません。安全には十分に配慮します。それでも、武道を修める以上、何の失敗も危険もないものとして扱うことはできません。いくら稽古を重ねても完全になることはなく、だからこそ、自らの未熟さを知り、より確かな技を求めて努力を続けます。

剛持ち双手取で掴まれて

子供たちは、そうして大人が汗を流し、失敗し、それでもまた稽古する姿を見ています。教える者が安全なところに立って厳しさを説くのではなく、自らも同じ武道の道を歩む。その姿を身近に見せることにも、武道教育として大切な意味があります。

強さと愛をともに育てる

武産合氣會の子供への指導には、強く、自らの足で立つことのできる人を育てるという大きな目標があります。

ここでいう強さは、単に闘いに強いということではありません。自分で考え、自分で決め、困難に出会っても簡単に諦めない。必要なときには自らを守り、大切な人を護ることができる。その一方で、他者の痛みを知り、人を思いやる心を失わない。強さには、人間愛と「もののあはれ」を感じる心が伴わなければなりません。

稽古には、楽しさも、厳しさも、思うようにならない辛さもあります。仲間と技を掛け合い、互いに助け、ときには競いながら稽古する。その中で日本の伝統である和の心を育みながら、自主性と協調性の双方を伸ばしていきます。

子供の合氣道 合氣二刀鍛錬

自分に確かな自信を持つ。しかし独り善がりにはならない。人と和する。しかし周囲に流されて自分を失わない。子供がその両方を身につけることが、日本の武道教育の目標であるべきと考えています。

日本人として、自ら考え行動する

武産合氣會では、武道を日本の歴史や文化から切り離して考えません。

長い歴史を受け継いできた日本人として、自らの国の歴史と文化を知り、それを自らの礎とする。その上で、より広く世の中を見て、自分の頭で考え、自分の良心に従って行動できる人になってほしいと願っています。

正しいと思うことを行うには、思うだけでは足りません。安易に卑怯な行いへ流されない心、それを支える身体、そして物事を見極める知恵が必要です。力を持つことと、その力を何のために使うのかを考えることは、切り離すことができません。

体術、剣、杖、二刀などの稽古を通して身体を修める。人と稽古する中で和することを学ぶ。できないことに向き合って心を鍛える。そして、祖国日本の歴史や文化への造詣を深め、自ら考える。

それらを別々のものとせず、身体と心、学びをともに育てていくことが、武産合氣會の子供への武道教育です。

将来、私たちとともに成長した子供たちが、それぞれの道を歩み、それぞれの分野で力を発揮する。その姿を思い描きながら、今日も子供たちと一緒に汗を流しています。



/大阪・吹田の合氣道 大阪武産合氣會

体術と共に合氣剣、合氣杖、二刀を修めて合氣道

美しき日本を取り戻すため日本人よ強くあれ