合気道剣術一刀

深淵へ

形の奥へ、技のその先へ

合氣道は、形を覚えることから始まります。 けれども、稽古はそこで終わりません。 形の奥にある理に気づき、体術と武器技を互いに活かしながら、技が生まれるところを探っていく。 初めての方も、経験を重ねてきた方も、それぞれのところから始められます。 答えを急がず、考え、試し、また稽古する。 私たちは、その先にあるものを「武産合氣」という問いとともに探り続けています。

第一章

合氣道には、その先がある

合氣道を始めると、まずは構えや受身、基本的な身体の使い方、そして一つひとつの技を学んでいきます。

はじめは、相手の動きに合わせて身体を動かすだけでも難しいものです。けれども、同じ技を繰り返し稽古しているうちに、少しずつ違ったものが見えてきます。

両手取り

手、肩、足、腰、・・・次々と身体の各所を連動させ、全体として一つの形を成している。

なぜ、ここで足を踏み出し、この方向へ動くのか。

そのとき、姿勢はどうあるべきなのか。

腕や手は、どのように働いているのか。

なぜ、ここで力を入れるとうまくいかないのか。

「力を抜けばよい」と聞いて力を抜いてみても、ただ弱くなっただけだった。

では、相手とぶつからずに技が生まれるとは、どういうことなのか。

形として覚えた技の中に、身体の使い方や間合い、相手との関係、そして技を成り立たせている理があることに、少しずつ気づいていきます。

合氣道は、技を覚えれば終わるものではありません。

一つひとつの技には名があり、その形には、先人たちが積み重ねてきた知恵と努力、そして感性が宿っています。

合氣道の開祖・植芝盛平翁は、並外れた感性の持ち主であったともいわれます。

では、努力を重ねるだけでは、その先へは行けないのでしょうか。

技を繰り返し、考え、感じ、また試してみる。

一つの技を学ぶことから始まり、その奥にあるものを少しずつ確かめていく。

いつもの相手なら動いてくれる。技も掛かったように思える。

けれども、あるとき、ちょっと覚えただけで「技を掛けたつもり」になっていたのではないかと気づく。

そこから、合氣道の本当の修行が始まるのです。

第二章

形を覚えることから、
理の気づきへ

教えられた形を繰り返し、少しずつ技が身体に入ってくる。

けれども、形を同じようになぞれば、同じ技になるとは限りません。

それでも技が技として成り立つためには、形の奥に、変わらない何かがあるはずです。

組太刀

どこで相手と接するのか。

どのように相手の力を受け、どこへ導くのか。

あるいは、いっそ受けずに、流し、外してしまうのか。

自分の中心と相手との関係は、どう変化しているのか。

目に見える手足の動きだけを追うのではなく、その動きを成り立たせているものを探っていく。

私たちは、それを「理」として、実地の稽古の中で学んでいきます。

説明を聞き、動画を見れば、知識として理解することはできます。けれども、それだけで「理」が身体に備わるわけではありません。

自分で動き、相手と接し、うまくいかなければ考え、また試す。その繰り返しの中で、自分の身体を通して確かめていくしかありません。

だから、形は不要なのではありません。

形があるからこそ、何度も同じところへ戻り、試し、違いを確かめることができます。形を繰り返すうちに、初めは見えなかったものが少しずつ見えてきます。

しかも「理」は、いつも「これが理だ」と、はっきり言葉にできるものとは限りません。教えられたことをそのまま覚えるだけではなく、自分でやって、自分で確かめなければ分からないことがあります。

そして、理が少し分かってくると、一つの技の中で学んだことが、別の技にも現れていることに気づきます。

技は、一つひとつ別々に存在しているのではない。

そのことに気づいたとき、覚えるための稽古から、考え、確かめる稽古へと少しずつ変わっていきます。

形は覚えた。けれども、なぜかうまくいかない。

教えられた通りにしているつもりなのに、何かが違う。

そんなもどかしさを感じたときこそ、形のその先へ踏み込む入口なのかもしれません。

第三章

体術と武器技
――互いを活かす

合氣道の稽古というと、相手を投げたり、関節技をかけたり、抑えたりする体術を思い浮かべる人が多いでしょう。

しかし、合氣道には木刀や杖を用いた稽古もあります。飛び道具こそ使いませんが、修行の一環として、時には短刀や真剣を用いることもあります。

二刀鍛錬組手

武器を手にすると、相手次第ではありますが、素手では曖昧にできていたことが、曖昧では済まなくなります。

どこへ向いているのか。

どこから動き始めるのか。

相手との間合いをどう取るのか。

身体の中心と、武器の動きはどうつながっているのか。

腕の力だけで刀を振れば、身体と武器はばらばらになり、身体の一部にだけ負担をかけることになります。

杖を使うときにも、手先だけを動かしていては、身体全体の動きにはなりません。

手に持った武器は身体の外にあります。けれども、稽古を重ねるにつれて、その武器まで含めて一つの動きとして扱うことを学んでいきます。

そして武器を置き、再び体術をしてみる。

すると、木刀や杖を通して気づいた身体の使い方が、体術の中にもあることに気づくことがあります。

反対に、体術で学んだことが、武器を持ったときに初めてはっきり分かることもあります。

実は、刀も杖も、持っているように見えて「持ってはいけない」。
そんなことも、一つのヒントになるかもしれません。

そして、体術と武器技は、それぞれ別々の技を覚えるためだけにあるのではありません。

一方を学ぶことで、もう一方が見えてくる。

その往還が、身体の使い方、間合い、相手との関係、そして技を成り立たせている理を、違った角度から悟らせるのです。

木刀を振り合うこと。杖を扱い、互いに相対すること。体術を掛け合うこと。

一見すると異なる稽古の中にも、共通するものがあります。

二刀をとったときに、かえって体術とのつながりを強く感じることもあります。

なぜなのか。

それを一つずつ見つけていくことも、合氣道を深めていく修行なのです。

第四章

武産合氣
――技はどこから生まれ、
和につながるのか

形を学び、その奥にある理に気づき、体術と武器技を互いに活かしながら稽古を重ねていく。

すると、もう一つの問いが生まれてきます。

技とは、いったいどこから生まれるのでしょうか。

覚えた形を、そのまま相手に当てはめるだけでは、いつも同じように技が成り立つわけではありません。

形を繰り返し学ぶことは大切です。しかし稽古を重ねていくと、その時、その相手、その動きに応じて、技そのものが変化し、生まれていくことへと目が向いていきます。

一つの技から、また別の技へ。

体術から武器技へ、武器技から体術へ。

それまで別々に覚えてきたものが、少しずつつながり始めます。

ここに、私たちが「武産合氣」という言葉を考える一つの入口があります。

では、武産合氣とは何なのか。

「武産」は、技を産み出すこととも深く結び付いています。開祖は、神変自在、千変万化の技を産み出し、それを練磨することを「武産の合氣」として語っています。

しかし、その根源をたどれば、開祖の言葉は「天地宇宙の気」にまで及びます。

そして、その言葉をたどっていくと、もう一つ避けて通れないものがあります。

『古事記』です。

開祖は、古事記を読むことの大切さを繰り返し説いていたと伝えられています。口述をまとめた『武産合氣』にも、とりわけ神代をめぐる話が随所に現れます。

それらが武産合氣とどのようにつながるのか。簡単に読み解けるものではありません。

けれども、合氣道を深く学び、武産合氣を探っていこうとするなら、稽古だけでなく、その背景にある古事記の世界にも少しずつ触れていく必要があるのでしょう。

では、それらはいったい何を意味するのでしょうか。

それを短い言葉で言い換えて、分かったことにするのは簡単です。けれども、言葉を言葉で解釈し続けるだけでは、かえってその本質から遠ざかってしまうのかもしれません。

私たちは、「武産合氣」を一つの説明の中に閉じ込めようとは考えていません。

形を学び、理を探り、相手と向き合う。

うまくいかなければ工夫し、また試す。

そして、そこから何が生まれるのかを確かめていく。

知ることと、できること。

考えることと、感じること。

教わることと、自ら気づくこと。

その間を何度も行き来しながら、稽古は続いていきます。

その繰り返しの中で、技を産み出すとはどういうことなのか。そして、それがどのように人や万物との「和」へつながっていくのか。

私たちが「武産合氣」という言葉を會の名に掲げているのは、その答えをすでに得たからではありません。

その意味を問い、稽古を通して確かめ、さらにその先を探り続けるためなのです。

第五章

受け継ぎ、試し、
次へつなぐ

ここまで読むと、合氣道とはずいぶん難しいものだと思われるかもしれません。

けれども、初めから理が分かる必要も、武産合氣について考えている必要もありません。

稽古は、まず教えられたこと、道場で直に見たことを、自分でやってみるところから始まります。

構えてみる。

足を運んでみる。

受身をとってみる。

刀や杖を振ってみる。

そして、教えられた形を相手と繰り返してみる。

合気の投げ技

私たちが今学ぶことのできる技や形も、多くの人が稽古を重ね、伝えてきたからこそ、今ここにあります。

だから、まずは伝えられてきたものを大切に学ぶ。

けれども、人が受け継ぐということは、単なるコピーとは違います。

教えられた通りにやっているのに、うまくいかない。

相手が変わると、まるで違ってしまう。

そこで考え、教えを聞き、工夫し、また試す。

伝えられたものを自分の心と身体で確かめ、その意味を少しずつ自分の中に取り込み、育てていきます。

合氣道は、日本で生まれた武道です。その背景には、日本の長い歴史の中で育まれてきた身体観や精神性、ものの見方、そして文化があります。

技の形だけでなく、そうしたものも受け継ぎながら、自ら気づいたものを加え、また次へつないでいく。

それも、合氣道の修行なのだと思います。

もちろん、簡単ではありません。

同じものを見ても、人によって気づくことは違います。見誤ることもあれば、説明を聞いて頭では分かったつもりでも、身体が理解してくれないこともあります。

以前は分からなかったことに、何年も経ってから気づくこともあります。

だから、まずやってみる。

分からなければ、またやってみる。

そして、諦めずに続けてみる。

その先に何が見えてくるのかは、始めて、続けてみなければ分かりません。

その長い道のりに根気よく付き合い、ともに考え、ともに試していく。

それが、武産合氣會の稽古でありたいと考えています。

第六章

まずは、稽古に触れてみる

ここまで、合氣道を深めることについて、いろいろなことを書いてきました。

けれども、合氣道は、文章を読んだり、動画を見たりするだけで分かるものではありません。

じかに見て、動いて、相手と触れてみる。

初めての方なら、まずはそこからで十分です。

構えも、受身も、技の名前も知らなくてかまいません。実際の稽古を見て、自分でも少し身体を動かしてみてください。

合気道や他の武道を経験してきた方も、大らかな気持ちで当會の稽古に触れてみてください。

同じところがあるかもしれません。

違うところがあるかもしれません。

そして、今まで気づかなかった何かが見つかるかもしれません。

面白いと思うか。

もう少しやってみたいと思うか。

それも、実際に稽古に触れてみなければ分かりません。

初めから「深く学ぼう」と構える必要はありません。

まずは一度、道場で当會の合氣道に触れてみてください。

そこから先へ進むかどうかは、それから決めればよいのです。

稽古体験から入門について、ご案内しています。

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