日本大変革の時代、明治維新のとき、明治維新が単なる政権交代ではなく、新たな国造りを目指した熱き思いを伝える明治憲法と共に並び称される教育勅語を記しておきます。ただの標語ではなくこれらを実行した人達のおかげで今の日本があるのです。
皇紀2550年(明治23年/西暦1890年)に発布されました。誰でも目にすることができますが、大東亜戦争敗戦以降顧みられることが少ないどころか、無下に貶められることすらあることに心痛めています。19世紀、欧米列強が世界中を席巻するなかで、自らの努力でアジアで唯一植民地化を免れ孤軍奮闘する日本も常に列強の脅威に晒された状況でした。軍事的に圧倒的な優位に立つだけではなく狡猾で貪欲な白人から常に生意気な東洋人として蔑まれ有色人種は人間扱いされなかった時代です。些細な失敗でいつ足元を掬われるか分からない状況だったのです。そのような周辺環境下で日本がいかに国体を護持する(自分たちの国の形を維持する、他国の奴隷にならない)かを熟慮せられ、国民への道徳教育の必要性を教え諭された諭文(諭しというよりも切々とした訴えだと思います)であるのに、その末裔たる現代日本人が疎かにするのは甚だ遺憾で、なんとかこの状況を変えたいと願っています。特に合氣道を志す人には十七條憲法と共に重要な意味をもつ成文であるため、まことに恐れおおきことながら、現代日本人への衆知を僅かながらも図るためにここに記します。
教育勅語は熊本藩士として生まれた井上毅(子爵 法制局長官、文部大臣等歴任)と明治天皇側近の儒学者・元田永孚を中心に古事記、日本書紀を始めとした古典をもとにした日本の在り方を規矩とすると共に幕末・明治始めの欧米白人国の支配下にある当時の世界情勢への対処を熟考し日本の将来を託す子供たちに最もふさわしき道筋を示そうと文案奏上し、明治天皇の認可を経て成立しました。
原文の下欄に”読み仮名入り勅語”と”口語訳”を併載します。
※明治神宮版より引用
教育勅語
朕惟ふに 我が皇祖皇宗 国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり 我が臣民克く忠に克く孝に 億兆心を一つにして 世世厥の美を済せるは 此れ我が国体の精華にして 教育の淵源亦実に此に存す
爾臣民 父母に孝に兄弟に友に 夫婦相和し朋友相信じ 恭倹己れを持し 博愛衆に及ぼし学を修め業を習ひ 以て智能を啓発し徳器を成就し 進んで公益を広め世務を開き 常に国憲を重じ国法に遵ひ 一旦緩急あれば義勇公に奉じ 以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし 是の如きは 独り朕が忠良の臣民たるのみならず 又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん
斯の道は 実に我が皇祖皇宗の遺訓にして 子孫臣民の俱に遵守すべき所 之を古今に通じて謬らず 之を中外に施して悖らず 朕爾臣民と俱に 拳拳服膺して 膺其徳を一にせんことを庶幾ふ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
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