こどもへの合氣(武道)教育

➤ ㈠ 武道教育と日本の文化

➤ ㈡ 現代の問題

➤ ㈢ 武産合氣會の教育

 

 


⇓本文

■㈠ 武道教育と日本の文化

短時間の指導でかなり動けるようになる大人とは大きく異なり、まだ身体も心も未発達の子供への武道指導は、互いに労苦を伴い、一般的には敬遠されがちです。あっても雑な圧し付けが横行しています。
 しかし、当会では日本の将来を担う子供達の指導に力を注ぎ、長い指導経験を経て磨かれた武産合氣會惟神合氣道指導則を導にしています。私たちには、子供だから伝えたい大切なことがあるのです。
 健全な子供は、強制されない限りチンと静まり返ったりジッと座ったりしません。それぞれ個性も違い、おとなしい子もいますが、そういう子もちょっと促すと駆け回ったり、明るく笑ったり、はしゃいだり、喧嘩したり、それが子供です。我々は明る い子供たちの笑顔をみるのが大好きです。子供は何より大切な宝。日本文化の特徴の一つが子供に寛容な社会であることをご存じでしょうか。各時代を通じて無邪気に遊ぶ子供の姿が描かれた絵画が多数残るのは特筆すべき日本の特徴の一つなのです。時代劇では身分の違いを思わせる型にはまった表現が普通になっていますが、実際には日本の身分制は役割分担の意味が強く、身分間の移動も時代を通じてかなり自在であったことも分かっています。子供たちは身分を問わず良く遊び、大人たちは子供の遊びに非常に寛容だったのです。そうしたあらゆるものに対する寛容さが豊かな文化を残す原動力の一つになったのだと思います。

江戸時代 無邪気に遊ぶ子供と見守る大人

 

 

■㈡ 現代の武道教育の問題

ところが、現代の子供に対する武道教育では多くの場合、特に合気道は二極に分かれます。投げやりで甘いだけか、頭ごなしに圧しつけて子供達が自分の意志で考える力をなくしてしまうか、です。前者は中途半端な体操を適当に覚えてせいぜい畳の上での受身だけが上手くなるか、後者はやたらに大人の顔色をみる老成したかのような歪(イビツ)な子供になってしまいます。一概に合気道だけが原因とは云えませんが、概してこういう子は成長しても愛がなく二面性の強い鵺(ヌエ)のような人間になります。当然勇とは無縁、自己愛のみが強い事大主義で、発想力も貧困かつ先例踏襲型です。全てとは云いませんが、悲しいことに合気道を子供の時にやったという人にこのタイプが多いのです。どちらも教える大人の都合が原因で子供たちのこと(子供の将来)を考えていないことから生じる悪弊がその子の将来の輝きを弱め不幸にしています。キチンと座っているのをみて親御さんは満足するかもしれませんが、その子は身勝手な大人の型にはめられて従わされているだけで、そのことにすら気付かないひどい状態にあるのです。そもそもユル持ち合気体操しかできない者に武道が教えれるはずがない。愛がないのも問題で自分ができないことを人に教えるなど当然不可能でしょう。こういう道場ほど、「~でなければならない」という子供を規制し型にはめる美句が多く、それを連呼し、また連呼させるのです。最も笑える例は「明るくなければならない云々、楽しくなければならない云々かんぬん」です。表現まで強制しなくても、合氣道をやっていて、いろいろ覚えて上手くなった、強くなった、合氣の動きが楽しいとか、子供は自然に明るくなるし楽しくなるものです。笑顔が子供の普通の姿。どうしても合わない子も勿論一定程度いるものですが。結果ではなく過程を教えて、子供が楽しくなる材料を提供しなければなりません。大抵は強制する大人も実践はおろか腑に落ちてすらいないので滑稽ですが・・・

誤解がないようにさらに述べると、子供が静かに座っていたらおかしいとか、先生の言うことを大人しく聞けているのは変とか、美句を掲げるのが悪いわけではありません。しかし、武道教育は学校の授業とは趣が大きく異なります。子供に大人しくさせるのではなく、教える側の大人がまず自らを律し自分の行動を示すことが求められるのです。文字通り手本となる行いと日常です。人間は常に楽をしようとしてしまいます。それは誰しも同じです。しかし武道を標榜するならその理想への努力を惜しんではならない。子供を教える立場なら、より神様に近い子供の目は神の目と同じととらえるべきなのです。指導者は、まず自らの生活を律し、時に休みを取りながらも自己鍛錬を怠ることなく本当の合氣の力を手にしてください。「これでいい」は生涯あり得ないと思い定める覚悟も大切。当会では合気道経験者の入門も常に歓迎します。

 

■㈢ 武産合氣會の教育

稽古が楽しくなるのは子供も大人も同じように大切ですが、子供には特に注意してそのための準備をさせないといけません。それには教える側にも、習う子供にも苦労が伴い、時間もかかります。怒れば子供は恐れて表面上従うようになります。しかし先にも述べたように、多くの場合は面従腹背という状態になりがちで、人間愛がない怒声は子供の心を凍らせ乾かせるだけで、反面教師という意味はありますが、大人の愚かさを子供にワザワザ見せているだけになります。
 武道には当然厳しさがあります。厳しさに接することなく武道を身に着けたとはいえません。それが如何なるものかも大人が愛をこめて教えることに、いやその前に大人が努力する姿その背中を間近で見せることに、子供に武道を習わせる価値があるのだと考えています。例えば、非常に厳しい当会の昇級審査を受審する大人の姿をみること、先をとることを封じられた(動の助けがない)大人が抑え込まれながらも立ち上がり必死で技を返したり、時には組太刀で打ち込まれた剣を受け損ねて打撲や裂傷を負う姿を子供たちも間近に見ることに勝る教育はありません。それで恐れてやる気を無くす子もいますが、ご縁が無かったというほかありません。一方で、汗もかかずに得意げに弟子を次々投げる姿をみせる道場がよくありますが、それは愚かな茶番です。そういう人には反面教師以外の意味が無いと断言できます。

剛持ち双手取で掴まれて

 当会の指導則には、まず強い日本を取り戻すという大目標があります。そのために強い日本人を一人でも多く生み出さねばならない。国の強さはそこに生きる人が明るく希望をもって生きていける社会があってこそ。この希望に満ちた社会を支え導いていける人に育ってほしい。そこには闘いに強いというだけではなく、愛がなければならず、ものの憐れを感ずる心が伴わねばならない。それが我々日本人の核となる歴史を受け継ぐ人に他なりません。
 楽しさ厳しさ辛さ全てを含包する稽古を経て日本の伝統である和の心を育みながら自主性と協調性を共に伸ばします。自らに確固たる自信をもちながらも独りよがりではなく、さらに国想う日本人を一人でも多く育てたい。それが我々の願いです。

子供の合氣道 合氣二刀鍛錬

長い歴史に裏付けられた誇り高き日本人としてのアイデンティティの形成に武道を活かします。歴史教育と共に心氣体の一致を図る武産合氣の体技と精神を教えるのです。縄文の時代より伝わる日本人の証は、誰もがもつ良心にいかに忠実に行動できるか。安易に卑怯卑劣な行動に至らずに清らかであるには、強い心、それを支える強い身体、卑怯な者に負けぬ知恵が必要。いわゆる正しきことに力を使う努力の大切さと、正しき心のありようを身をもって子供たちに教えます。輝ける日本の歴史を背負うにふさわしい人に育てるために武産合氣會惟神合氣道指導則があります。

□ 将来、我々と共に成長した子供達がそれぞれの分野で活躍する姿を夢見て、共に汗をかくことが悦びです。

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武産合氣會指導統括

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