当会の合氣道稽古への姿勢

以下は余談です。過去にも似たような話をしており被る部分もありますが、当会合氣道に興味があれば参考にして下さい。
当会指導者は長口舌を好みません。口で合氣道体技は習得できないし精神性も開花しません。合氣道に万の技があるのは何故か。思いは身体を使う真摯な稽古を通じて伝えるべきです。文章の方が伝わりやすい部分は文で表し読みたい人に読んでもらいます。
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合気道の説明にその精神性を謳うことが多くまさにその通りではあります。当会も日本の歴史と結びついた惟神合氣の心を伝えるにやぶさかではありません。しかし武道は特に合気道は実際に投げれてなんぼの世界でもあります。ユル持ちが普通になってしまった一般的な合気道場のようにいつもの相手、従順な弟子にしか技が使えぬ状態を置き去りにして精神があるわけではありません。従って鍛錬の要素のない合気道は踊りか体操に過ぎぬことを当会はしばしば述べて来ました。そのため当会は稽古も審査も一般道場よりもある程度厳しく、楽にやりたい人には不向きなのは確かです。
 但し鍛錬すれば、ある技が全ての相手や状況に対して万能になるかというとそれは否です。正義と悪、天と地、美と醜など何事も極端に振れ、二項対立でとらえるのは分かり易いですが、素人がしばしば陥る落とし穴。合氣の技は一つ一つが全てに万能ではなく、知り得る技の意味・効果・弱点を踏まえ相手の状態・位置、動きに合わせて使う技を自在に変化させるのが本来の姿です。その中に当身、転回や転位があります。
 しかしこれらを使い熟コナすには当会なら少なくとも二段~三段とそれも相当に慣れた状態を維持し続ける必要があり、本来なら週一・二回の稽古では難しいものがあります。勿論何段と言っても個人差が大ありですが、穏やかで平和な現代日本ではそう簡単ではなく、常に謙虚さをもって道を求め続けることは当会にとっても最も重要な戒めの一つです。
(言ってしまうと、聞かれもしないのに己の段位を口にする者は姿でも分かるが、まず間違いなく他力本願の合気舞踏家です。)

謙虚さを元にした求道の取組として、慢性的なこの稽古不足をある程度補うのが力合氣です。当会では特に男性は基本的に力合氣で稽古に臨むことを推奨していますが、力合氣と言っても、とにかく技を封じるというものとは意味が違います。柔軟な姿を心得つつ、それぞれの技稽古においては極力その技の可能性を探る心掛けなのです。本来なら取り手(技で投げる側)のかける技は上記のように適宜変化しますが、普段の技稽古では変化・技転位を封じているわけですから、世の中に万能な技が存在し得ない以上、受け手(打ちかかり投げられる側)にも一定の規制・規範があります。この規範を意識下において互いに節度をもって臨むことも大事な稽古の取組方なのです。
 但し子供の場合は力合氣はあまり行いません。当然これは?というくらい簡単なことから、まずは習い覚えることから始めます。それもよくある子供には受身をさせればよいと雑にやりながら言い訳を並べるのは言語道断で、子供ならなおさら丁寧に教え諭していくべきです。教え諭しは眠たい口説のことではなく体で教えます。とにかく己が安逸を貪るための言い訳と怪しげな自慢話を長口舌する指導者には呆れるほかありません。いや日本の子供たちの将来を思い怒りを覚えるのです。

習い覚えることも重要ながらそれを前提として限界・可能性を探ること、それが合氣道の楽しみ方でもあり醍醐味でもあるわけです。皆さん各々に合氣の技を楽しんで下さい。
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/武産合氣會